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取材しても、記事にできる情報は1割未満。しかし捨てた9割にも、伝えられるべきものがあります。ボツになった企画も数知れず。そんなネタを紹介します。なお、本ブログの文章と写真の無断転載はお断りします。ご利用希望者合はご一報下さい。
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樫田秀樹

Author:樫田秀樹
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●最後の日

 定住プロジェクトを終了させたのは、たまたま、私の2年間の赴任期間が終わりに近づいた頃である。私にはすることがなくなった。考えていたソマリア滞在3年目はなくなった。

 マグドールはとうの昔に姿を消していた。私が始めた「収入向上プロジェクト」(難民のなかでやる気のある人に、パン屋、鍛冶屋、省エネかまど作りなどの小規模事業の開始を技術的、資金的に応援するプロジェクト)は、そう難しいプロジェクトでもないので、後釜で入る新人に引き継がれることになった。
 
 ちなみに、定住プロジェクト中止については、私が去ったあとにソマリア人スタッフから農民に伝えらられることになった。というのは、私が予定より数日早くルークを離れることになったからである。帰国後に伝え聞いたところによると、計画中止を農民は「ああ、分かった」と淡々と受け止めたそうだ。それはそうだろう。元々、彼らには定住する気などなかったのだから。

 87年4月上旬、ルークを去る日がやってきた。
 その日の朝、いらないものはすべてソマリア人スタッフに分配しようと自分の小屋を片付けていると、多くの人が、別れの言葉を口にし握手を求めてきた。
 アオキが来た。この2年間、私を力強く支えてくれた正義感の塊だ。アオキの存在は大きかった。もっと一緒に仕事がしたかった。

「カシダ、行ってしまうのは本当に残念だ」

 そう言って握手を求めてきた。
 そのとき、私は不用品となった何十本かのミュージック・カセットテープを処分しようとしていた。それを見たアオキは言った。

「カシダ。君を忘れないために、これをもらえないか?」

 君を忘れないためにか! 私は思わず笑った。もちろんだ。あげるよ、アオキ。本当に、俺のことを忘れないでくれよ。俺も決して君を忘れない。こんなもので俺を覚えていてくれるなら喜んであげるよ。

「アオキ。今まで本当にありがとう。いつか会おう。いつか。元気でな」
「カシダ、俺を忘れるな」

 私たちは抱き合った。
 重いカバンを背負い小屋の外に出る。台所の前では、いつも通りコックのハビボが腰を下ろし、赤ん坊を抱いていた。

「ハビボ。いろいろとありがとう。日本に帰るんだ。さようなら」
「おー、カシダ。私こそありがとう、ありがとう」

 心からの笑顔を向けてくれる。

 私は会計室に行き最後の帳簿合わせをする。
 もう外ではモガディシュに向かう車が待っている。だが、会計室にもお別れの挨拶に次々と人がやってくる。モハメッドが、ラシッドが、ハッサンが、フセインが、アブドラヒが、ジョフが握手を求めてくる。

 この日、モガディシュに向かうスタッフは、もう全員がワゴン車に乗り込んでいた。

「カシダ、早く!」

 早くか。最後の日に実にソマリアらしからぬ言葉を聞いた。

「今行く!」

 警備員のユスフと握手してから、荷物をワゴン車の中に放り込み、私は後部座席に座った。
 
 すぐに車は走り出す。後ろを眺めていると、いつも見慣れている宿舎が、宿舎のゲートが、空がぐんぐん遠ざかる。これで最後だ。もう誰にも会えないかもしれない。車は走る。難民キャンプを抜け、ルークの橋を渡り、土ぼこりをたて、思い出に浸る暇もないくらいに突っ走る。車の中は、ソマリア人スタッフの馬鹿話で多いに盛り上がっている。車はいつしかルークを見渡せる丘を越えて一面のブッシュに入った。振り返ってももうルークは見えない。

 私は思った。いったい、私がルークで果たした役割は何だったのだろうか。本当にこの2年間、私でなければいけなかったのだろうか。所詮、私はいつかは母国に帰る外国人だ。個人にとっては長い2年間も、難民にしてみればその人生の何十分の一でしかない。

 ソマリアという、文化も習慣もまったく異なる土地でわかったのは、人を助けたいという「善意」は、その使い方を誤ればなんとおこがましいものなのかということだった。そして、私には人を実際に助けることなどできなかった。

 本稿ではあまり触れなかったが、違う文化をもち合わせた人たちとの楽しい思い出は多かった。だがそれ以上に、ソマリア人にたっぷりと揉まれながらケンカをするように走り続けた日々を生涯忘れることはできない。そこには、日本の常識が「絶対に」通じない世界がある。互いの世界の間には、どんなに乗り越えようとしても乗り越えられない壁がそびえている。私たちは常にこの壁の前でもがき、泣き、ときには呆気に取られ、どうしようもないやりきれなさに苦しんだ。壁の前で一体何度心が乾いていく思いをしたことだろう。

 時々思ったものだ――ソマリアは乾いている、何もかも。何もかもを乾かしてしまう。空も、大地も、時には人の心も。

 最後までソマリア――正確にはルーク地区――での難民の考え方や習慣を易々と受け入れることはできなかった。ただ、どんなに心を削る思いをしたとしても、互いの理解を隔てている壁の向こう側にある異質の思考回路や習慣を、少なくとも理解しようと努め、せっせと地道な話し合いに努めたからこそ、私たちは活動し続けることができたと思う。

 私たちと同じように農業プロジェクトを実践していたフランスのNGOは、ソマリア人との話し合いを重視せず自分たちの思うように農業をやらせようとしたので、農民の反感を買い、あわや暴力事件寸前にまで追い込まれ、数人が逃げるように帰国していた。

 学ばせてもらったものもある。それは、人間はどんな境遇になっても逞しく生きていけるという事実であり、人からどう思われようと、程度の問題もあるが、自分の意思や要求をずうずうしいまでに貫き通す姿勢をもつこともそう悪くはないということである。

 その視点から私の国日本を見ると、何と変わった国であることか。本当の失敗でなくともすぐに謝り、自分の意見を主張できずに社会の大勢に迎合してしまう。もし、ソマリア人が日本に住んだのならこう言うかもしれない――「なぜ皆正直に生きないのか」

 私は今帰るのだ、その日本へ。

 もし、ソマリアの体験が今後の人生に生きるとすれば、それはどんなに虐げられても、誇りをもち続け、最後まで自分を自分あらしめることなのかもしれない。随分、面倒な課題だな・・。
 車はいつしかブッシュを抜け、舗装道路に乗り上げ一気に加速する。風景は二年前とまったく変わらない。外を眺める私の頬にわずかに湿気を帯びた空気が流れてきた。


●エピローグ

 私がソマリアを去ってから数年後、ソマリアで内戦が始まった。そして、国連や米軍の介入にも関わらず、ソマリアが無政府状態になったのは周知の通りだ。
 内戦が始まり、1991年1月26日、シアド・バレ大統領は首都モガディシュを脱出すると、治安は一気に悪化。同年のある日、モガディシュのJVC事務所に強盗が入った。

 日本人スタッフのF君がこのとき事務所にいた。
 ドヤドヤと音がする。
 ドアが開くと、JVCスタッフのある技術職の男性スタッフが両手を挙げて入ってきた。その後ろには、銃を構えた強盗段。

「金を出せ」

 金庫の金を出すと強盗団は消えた。

 これを機に、JVCは活動不可能と判断し、ソマリアを去った。

 ソマリアを出たのはNPOだけではない。
 ソマリア国民、そして私たちと付き合ってきたソマリアの難民もまた国外に難民として流出した。その数100万人以上。

 内戦でもっとも被害の大きかったのはモガディシュから北西200キロのバイドア市。
 私がモガディシュからルークに行くときは、必ずここで降りて、ルークのスタッフのために果物などのお土産を買った。舗装道路はここで切れる。だからここが楽に移動できる最後の街だった。

 しかし、この街が「血の川」と化した。

 私の前任者、柴田久史氏の著書「ソマリアで何が?」(岩波ブックレット)にはこう書かれている。

 シアド・バレ大統領は逃げる途中、バイドアを通過していった。その際に軍隊は農民が蓄えた一年分の備蓄食糧の大部分を略奪し、井戸のポンプを奪い、手榴弾を投げ込んだ。陸路ケニアに脱出する途中、バイドアを通過したJVCの旧スタッフの一人は、バレ軍による大量虐殺と女性への無差別の暴行を目撃し「町の中に血の川が流れていた」と証言した。

 ところで、93年2月、ソマリアが小康状態となったところで、柴田氏を含め、ソマリアを経験したJVC日本人スタッフ数人がソマリアを再訪した。
 このとき嬉しいことがあった。
 スタッフたちはモガディシュでアオキに再会したのだ。アオキは、アメリカのNPO「ワールド・コンサーン」のスタッフとして給食センターで働いていたのだ。思えば、私も給食センターを立ち上げるとき、最初から関わってくれたソマリア人スタッフはアオキだった。

 よかった。アオキは生きていた。
 他にも、数人の旧スタッフの無事が確認できた。ケニアの首都ナイロビで勉強のためにやってきたM。孤児のなった男の子と一緒にナイロビの安ホテルで暮らしていたSの無事が確認できた。しかし同時に、亡くなったり行方不明となった人もいた。

 しかし、その後、アオキはワールドコンサーンを離れたようで、数年後にJVC東京事務所に「生活にとても困窮しているので、かつての仲間から支援をいただけないだろうかとの連絡が届いた。
 私たち旧スタッフは、5000円や1万円などの金を集めてアオキに送った。そんなことが2回あった。
 
 その2回目がもう10年以上前なので、アオキは今どうしているか、私は再び心配だ。

 そして、マグドールやマガネイで関わってきた難民の人たちは再び難民となった。どこに行ったのか?
 エチオピアか? ケニアか? ジブチか? 紅海を超えてイエメンか?

 私にとっては、「難民」と一括りにはできない。
 アボーカルであり、マーリン・アブディであり、カイロであり、ザハロであり、ファーラであり、水運びで働いてくれたハッサンであり、名前のある無数の個人なのだ。

 今、私ができるのは彼らを忘れないことしかできない。
 現地に行くこともできない。情報も入らない。

 また正直に話せば、あの揉まれるような日々をまた一年単位で過ごしたいかと問われれば、私は即答できない。ただ再訪はしてみたい。だが、それはいかにも物見遊山のようで、許されない。再訪するのなら、次につなげる何かができてこそだ。その何かは私にはない。

 忘れない。それしか私にできることはない。



ソマリアで何が? (岩波ブックレット)ソマリアで何が? (岩波ブックレット)
(1993/06/20)
柴田 久史

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ソマリアで活動していたNPO「JVC(日本国際ボランティアセンター)」のスタッフによるブックレット。ソ1993年発行。
 ソマリアの歴史、大量の難民が生まれた背景、国家崩壊の背景、今何をなすべきかが、じつにコンパクトにまとめられている。
 ソマリア内戦から20年以上が経つが、同国が未だに無政府状態であることから、今でも本書からは基本的情報を学ぶことができる。




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国井修氏の前では、病院という枠や国家という枠は障害ではない。自分のやりたいことをただ実現すること。そのために、ただただ邁進すること。そうやって、国井氏は世界100カ国以上での医療活動に携わってきた。
 1985年、大学の医学部卒業後の研修医時代、国井氏が短期ボランティアを行ったソマリアの難民キャンプ。そのソマリア=破綻国家に国井は再び医師として関わっている。
 医療の本としてではなく、人間の生き様の本として読んでほしい。



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●食糧援助は要りません!
 
 ルークに戻った私は、マグドールの今後に一抹の不安を抱きつつ、再び、援助慣れした難民との定住プロジェクトの話し合いに気分が腐っていた。

 ルークのハルバ地区に住む難民の人たちがJVCを訪ねてきたのはそんなときだった。JVCの農業プロジェクトの噂を聞いてやってきたのだ。またおねだりか、と初めは思った。だが、私は彼らの言葉に心底打たれた。

「私たちは、ハルバ地区で農業をやろうと思っています。そのために、難民キャンプを出ようとも思っています。そうなると、UNHCRからの食糧援助が打ち切られるかもしれませんがかまいません。JVCは揚水ポンプをもっていると聞きました。どうか、そのポンプを私たちに譲っていただけないでしょうか? もちろん、その代金は何年かけてもお返しします。していただくことは、それだけで充分です。農地の造成は自分たちの力で行うつもりです」

 食糧援助が打ち切られてもいいだって? 揚水ポンプだけでいいだって? 政情も治安も気候も尋常ではないこの土地において、賭けとも言える発言だ。なぜそこまで言い切れるのか。

 ハルバ地区の難民は、ソマリアのなかでは被差別氏族に属していた。これは私たちも噂ではよく耳にしていたことであるが、同じ難民とはいえ、氏族社会のソマリアでは、優位に位置する氏族と劣位の氏族とでは扱われ方が違う。その典型が、命の綱の食糧配給での配給量の操作だ。大統領(当時)のシアド=バレと同じ氏族の難民は通常以上の量をもらい、被差別氏族は必要最低限ももらえない。

 虐げられことへの憤りと、食糧をもらうだけで生きる人生への疑問。自由と尊厳を求めて、彼らは決めたのだ。「難民キャンプを出る」と。

 定住だ。これこそが定住だ。自分の意思で難民キャンプを出て、食糧配給を断り、作物を育て、村を形成する・・。
 
 マガネイでは違った。実は、途中で発覚して私も失望したことだが、私が担当する以前に、某スタッフがこの計画を農民にもちかけたとき、農民から寄せられた質問は「定住したら食糧配給を打ち切られるのではないか」というものだった。だが、そのスタッフはこう答えた――「その心配はない」
 
 これが、裏を取った話なのか、希望的観測なのかは、そのスタッフがJVCを去ってしまった以上はわからなかったが、こう答えた時点で私たちはもう農民になめられていたのだろう。なぜなら、他者から食糧をもらいながらの定住などありえないからだ。

 定住は「目的」ではなく、あくまでも「結果」にすぎない。農業の熟成とともに、農民が自然と農場近くに住みつき、いろいろな生産活動と人との交流を幾度も繰り返すうちに姿を現す結果、それが定住なのだ。その過程でいろいろと問題が起これば、その調整に当たり、軌道修正や修復を担当するのが私たちの出番だっあったはずだ。だが、私たちは定住をお膳立てし作ろうとした。その結果、火に油を注ぐがごとく、難民の依存心を大いに煽ることになった。

 このハルバ難民との出会いも、マガネイでの定住プロジェクトをそろそろ終了させようと思うきっかけの一つになったのだが、私はいつか高橋さんが話してくれた言葉を思い出していた――「あんたは腕だけ組んでじっと見とりゃいい」

 マグドールのプロジェクトが始まった直後、私は我ながら頑張っていた。事務処理、他団体との折衝、難民キャンプでの話し合い、現場での指示・・。当初は一日16時間働いていた。いつだったか給食センターで、私が、その膨大な数の人間を登録するのを見ていた高橋さんは感心する一方で、その言葉を口にした。

「樫田君、今は頑張ってもいいけど、いつまでもそれではいけん。いつの日か、あんたは何もせず、難民の人たちだけで業務が回るのを腕だけ組んでじっと見とりゃいい」

●いかに「助けない」かこそを考えよう

 なぜ頑張ってはいけないのだろうか? 当時はそう思った。だが、これほど援助の本質をついた言葉はない。定住プロジェクトの「失敗」を経て再認識したが、難民救援活動においての主人公は難民自身に他ならないからである。
「どんな人が援助活動に求められるんでしょうか」とはよく聞かれる質問だが、人により答は様々だ。語学、技術、交渉力、やる気・・のある人。私ならこう答える。

 どんなに悲惨な境遇にあっても、人間はそこから立ち上がる力をもっている。人間のこの真理を信じられる人。

 なぜなら、それを信じられない人は相手を「可愛そう」「不遇」「力をなくした」と思いこみ、「助けてしまう」からだ。自分の足で立ち上がろうとする人たちを「善意」でおんぶしてしまうからだ。私たちがすべきは、立ち上がろうとする人間が人間の尊厳をもって生きられるよう、そういう場や機会の提供・調整を最小限するだけでいい。

 前述の通り、JVCがルークに来る前から、JVCの第2農場、第3三農場の農民となった人たちは、自分たちで地主と交渉をもち土地を耕し、揚水ポンプなどないから、バケツなど人力で川から水を汲み上げていた。JVCと関わりをもっても、この自主性が失われることはなく、農民登録された以外の難民も入れ替わり作業に従事し農場は活況を呈していた。

 この自主性から、私は当初、彼らがこの定住プロジェクトに乗ってきてもおかしくはないと予想した。だが、乗ってこなかった。後日、第2農場のリーダーはこう言ったものだ。

「これはJVCのプロジェクトであり、私らのプロジェクトではないからね」

 NGOがいるから難民が集まるのは、ソマリアにおいては事実の一つの側面だった。だからといって、援助機関がすべて去ればいいとは言えない。

 私は、援助とは何かと問われれば、端的にこう答える――「助けないこと」

 もう少し丁寧に説明するならば、立ち上がろうとしている相手が人間の尊厳を賭けて今何を望んでいるのか、相手がどこまで自分で出来るのかを見極め、相手の力及ばない部分だけを支援すればいい。

 どんな人間も立ち上がる。助けなくていい。
 マグドール、マガネイ、ジャボレ、そしてハルバの難民を通して、私は初めて自分なりの答を強くもつことができたと思う。
 さて、このハルバ地区の難民だが、彼らはこの後、本当に揚水ポンプをローンで返し、JVCの協力のもと造成工事を行い、難民キャンプを出たのである。

 本連載「ソマリアは乾いていた」は、次回で最終話となります。


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●ソマリア一番の立派な難民キャンプ


 定住プロジェクトの中止を決定付けたマガネイ農民との最後の話し合いの数日前のことだ。

 私は、かつて担当していたマグドール難民キャンプの人々が移住したジャボレ難民キャンプを訪れていた。JVCのジャボレ担当者が、給食センターの運営の仕方を教えて欲しいと要請してきたからだ。マガネイでの話し合いに疲れきっていた頃だ。久々にマグドールの人たちに会えることは、楽しみであった。
 
 ジャボレは遠い。ルークから出かけと、首都モガディシュのJVC宿舎で一泊しなければならない。
 ジャボレに来るのは、第1回難民移送に同行して以来だ。
 誰もが、必要最低限のものしかもたずにここにやってきた。今も、モノ不足のなかで暮らしているのだろうな…。

 ところが、ジャボレに着いて驚いた。

「何だ、ここは!」

 目の前には、立派な土壁の家が林立している。ルークにあるどの難民キャンプの家よりも立派な造りだ。ボロを張り合わせた簡易テントのような小屋で埋まっていた、あの、ソマリア一貧しかったマグドールは、今やソマリア一豊かな難民キャンプへと大変貌を遂げていた。

 一体、どうして…。

 難民キャンプを歩いてほんの1、2分も経てば、あちこちから「カシダ!」と声が飛ぶ。間違いなくここは、元マグドールの人々が住むジャボレである。

●食糧配給で儲ける

 謎はすぐに解けた。食糧配給である。

 私が着いた翌日に難民への食糧配給があったのだが、ジャボレでは、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)ではなく、サウジ赤新月社(Saudi Red Crescent)というサウジアラビアの団体が食糧配給を担当していた。その配給現場を観察した私はぶったまげた。その配給量が中途半端ではないのだ。

 UNHCRが行なっているのと比べると、軽く倍はあるではないか。当然、各家庭は、消費しきれない量をもらうことになるのだが、配給所の真ん前には首都モガディシュからやってきた商人たちの大型トラックがずらりと待機していた。難民はここで食料を売り、金を手にして、欲しいものを手に入れていた。

 こんな収入源で生活が潤っていく現実をマグドール難民の誰が予測しえたであろうか。難民移送前に、食糧配給カードを交換してマグドール難民になりすましてこの地にやってきた人たちはまさに大当たり、この世の春だ。

 マグドールの給食センターで働いていた女性コックの一人、19歳のアルドにも出会った。人を恨むことのない性格で、ややおっちょこちょいの楽天家。誰からも好かれていた。
 
 アルドは、重そうに、だが嬉しそうに配給食糧の入った袋を運んでいた。

「アルド! 元気だった? 重そうだね」

「カシダ、家に寄って。ね」

 アルドの家では家族が私を歓迎してくれた。家の中には、新しいソマリア式のベッド、椅子、食器の数々が揃えられていた。分厚い土壁は外の暑さをみごとに遮断し、乾燥に耐えてきた肌をほっとさせた。

 マグドールでJVCのCHW(地域保健員)をしていたアボーカルも家に招待してくれ歓待してくれた。
 きれいなグラスに甘い紅茶が振舞われた。アボーカルも家族も全員が心から私をもてなしてくれた。
 
 紅茶はおいしかった。新しい家と家具、食器。これはこれでいい。いつまでも貧しいままでいいはずがないのだから。だが・・。

●これでいいはずがない

 難民キャンプで再会する知人たちは「こんなに食糧もらってんだぜえ」とみな嬉しそうだった。私はその笑顔に素直に「よかったな」とは言えない。そんな生活が何年も続いたあとの将来像はルークの難民キャンプで具現化しているからだ。

 人間に必要なのは、働いて食うことだ。

 だが、今、ジャボレでは、働かずに食うことが日常化している。

 マグドールよ、お前もか・・。今まで大切にしていた何かがガラガラと崩される思いに、私はただ寂しいような陰鬱な気分に浸った。

 おそらく、マガネイの難民にしても、最初はこうだったのかもしれない。外からの援助に、純粋に喜び、人として最低限の住居や備品を揃えていったのだろう。だが、換金性のある食糧配給という援助は、徐々に労働意欲を失わせ、難民という特権を振りかざすことで外国人からさらに何かを引き出そうとした。少なからぬ人が、嘘と演技を総動員し、自らの難民という立場を物資獲得のための駆け引きに使っていた。そして、その駆け引きになかなか乗ってこない「ケチ」な外国人――例えばマガネイでの私――には非難の言葉が投げつけられた。

 ジャボレでも、JVCが自立支援のための活動を続けていたのだが、そのためにも、必要十分以上の食糧援助は不要なものでなければならなかった。

 食糧欲しさに大量に紛れ込んでいるであろう非マグドール難民と便乗難民。この人たちの人生はなんのためにあるのだろう? 私にはその価値観を測り知ることができない。

●「NGOがいなくなれば解決する」

 こんな私の愚痴に、ジャボレ在住のソマリア人スタッフはさらりと言ってのけた。

「これがこの国の難民の実態の一面さ。でも、俺は、この状況を解決できる術を知っている」

「何でしょう?」

「国連とかNGOとかがいなくなればいい。遊牧系の人たちは、親戚を頼って何百キロだって移動しちゃうんだから、そこで安住する。援助があるから難民は増えるんだよ」

 以下のような説明だった。

 ここにある難民の家族Aがいるとしよう。家族構成は、父と母、そして5人の子どもの7人。エチオピアから命からがらソマリア国境に辿り着いた。A一家は近くの難民登録所へと出頭し、食糧配給カードを手に入れる。だがここで不思議なことが起こる。難民登録書に出頭した家族は10人に増えているのだ。ともあれ、A一家はそれ以降、毎月10人分の食糧配給を受けることになる。

 種明かしは簡単だ。血縁のネットワークをフルに利用して、親戚から子どもを何人か一日だけ貸してもらうのだ。そして、登録所で訴える――「見てください。私には8人も子どもがいるんです」

 さらに、その数ヵ月後、新しい難民がそこから数十キロ離れた場所に現れた。国と国連が新たな難民登録をするらしい・・。この情報を聞いたA一家は即座に移動を開始する。かくして家族は二枚の食糧配給カードを手にすることになる。
 これは彼の作り話でも何でもなく事実である。遊牧系の難民の多くがこれをやっている。ずうずうしいまでの逞しき生活術である。
 もちろん、農民系の難民や、遊牧系の難民でもすべての家畜を失ったなど、さまざまな理由で本当に困っている人々がいる以上、国際協力は必要である。それはさておいても、「援助が難民を呼ぶ」というこの言葉に、私は、自分たちがここにいることの意味を考え、何とも寂しい気持ちでジャボレをあとにした。

「何だろう、援助って・・」

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●定住プロジェクト中止

「定住プロジェクトを中止しようと思う」

 JVCミーティングで、私とOさんはそう切り出した。
 行き過ぎた援助は、人を援助に縛り付け、人の独立心を失わせる。ルーク地区難民は、UNHCRの10
年近い食糧援助で、その多くが援助慣れを起こしてしまい、他者からもらえることが当たり前になってしまった。

 そこで、できるだけ多くの人に自立の場を提供しようと、高橋さんらが取り組んできたのが農業プロジェクトだった。自分の力で土を起こし、自分の力で種を蒔き、自分の力で鍬を入れ、その汗の代償として惠を得る。他者に依存していた自分に人としての尊厳を取り戻すのだ。

 だが、今回の定住プロジェクトは、農民の一部に依存の道を開いてしまった。農民にすれば、定住ではなく、家一軒をもらえただけの「引越し」としての役割しか果たせず、その依存心を必要以上に煽った。

「だから中止をしようと思う。第4農場の、約束を守ろうとせず、ただ、物資の要求を繰り返す姿からは定住への意思が感じられない。どうだろう、モハメッド、ラシッド、アオキ、ハジ」

「現状でいえば、それがベストな選択肢だと思う」「俺もそう思う」「俺もだ」

 計画開始前には鼻息の荒かったソマリア人スタッフも、現場を見てきてこりごりしていた。誰からの異論もなく中止が決まった。
 自らの意思で立ち上がらない限り定住はありえない。このことをようやくソマリア人スタッフは理解したのだ。即ち、私が思い描いた「目標」は実現したのである。もっとも、ルークに常駐していない一部スタッフからは「樫田がプロジェクトを失敗させた」とのやりきれない非難も飛んだが、それには甘んじなければならなかった。

 私が理解したのは、このルーク地区では、難民は欲しいものを何でも要求できる「特権階級」であり、私たちNGOは、彼らから見れば、どこかの国からやってきた大企業の人間であるということだ。まだ20代の若造が4WDの車を運転し、月に何百万円と動かしている。特権階級の人間からすれば、この金持ちの私に欲しいものを主張するのは当然の権利であり、ずうずうしいまでにその権利を振りかざしてモノを手に入れるのは、当たり前の生活術なのだ。

 だが、彼ら――この場合、第4農場の難民――は、難民となる前からああだったのだろうか? 取れるところからは毟り取っていたのだろうか?


●美しい思い出

 遊牧民系の氏族であれば、ぶったくり精神は持ち合わせていただろう。だが、ここまで強烈ではなかったはずと私は思う。というのは、私にはマグドールという難民キャンプと一年半に及び付き合ってきた経験があるからだ。マガネイに関わってから、つくづく、マグドールは貧しくとも何と美しい場所だったのかと心から認識できるようになった。

 モスクを作って欲しいと要請しながらも、結局は自分たちでブッシュから木を切り出し、粗末なモスクを作っていたときのみんなの嬉々とした表情。砂糖と紅茶だけの提供で、自主的にトイレつくりに励んだ人々。ほんのポケットマネー程度の謝礼で、給食センターや診療所で私たちを助けてくれた8人のセクションリーダー。給食センターでの受付をボランティアで手伝う若者もいた。

 食糧倉庫でのコソ泥はいた。だが、その程度である。マグドールでは、マガネイの農民のように、自分たち自身が最低限しなければならないことまで私たちに要求してくることはなかった。

 マグドール1よりもさらに劣悪な環境化におかれていたマグドール2には、忘れ得ぬ思い出がある。

 マグドール2には、予算と人材不足から診療所を建てることができなかったので、難民の人々にはマグドール1の診療所にまで行ってもらっていた。だが、急病人が出たら、休日でも往信は行うことは伝えてあった。
 85年9月頃だった。マグドール2の病人に定期的に飲んでもらう薬を渡すため、休日の金曜日、私は一人、車で出かけた。その病人に確かに薬を手渡し、帰ろうと車をバックさせていたときのことだ。何かがゴンと当たった。下りてみると、臼だった。割れている。穀物をついて粉にするのに使う生活必需品だ。
 臼の背が低かったので目視でもバックミラーでも確認できなかったのだ。
 私は思わず言った。

「すみません。弁償します」

 と同時に思った。どれくらい、ふんだくられるのだろう・・。
 すると、一人の老人が言った。

「弁償だと? 何を言う。あんたは、わざわざ私たちの家族を救うために来てくれたんだ。そのあんたにどうして金を払えと言えようか。俺はあんたがここでしていることを見ていた。俺だけじゃない。そうだな、みんな!」

「そうだ。俺たちはちゃんと見ていたよ!」

 そこにいた6、7人の男たちがいっせいに声をあげた。
 老人は言葉を続けた。

「心配しないでくれ。確かに臼は壊れた。だが、ちゃんと近所の誰かが俺を助けてくれるのだから。さあ、気にしないでもう行きなさい」

 車で去っていく私を、皆が手をあげて見送ってくれた。彼らは、「でも」という私から決して金を受け取ろうとしなかった。この日ばかりは、いつも見ているはずの、地平線に沈んでいく夕陽がことのほか美しく見えた。なんと誇り高き人たちだろう。

 マグドール2。当時、ソマリアでもっとも貧しく、もっとも支援の手が入っていなかった難民キャンプの一つである。少なくとも、もう何年も難民として暮らしている他キャンプの人々とは明らかに違っていたのは、そのぶったくりの度合いが断然低かったことである。


●ぶったくりと援助

 私はこの事件を思い出しては考えた。ぶったくりは文化や習慣として元々あるのかもしれない。だが、それは、当事者同士の信頼関係の未成熟、はたまた、一概に言ってはいけないが、外国からの「援助活動」を通じて増幅されるのでないか・・。
 
 とはいえ、私は、援助を否定しない。例えば、UNHCRという国連組織が食糧援助活動をしなかったら、測り知れない人命が失われていただろう。
 JVCの農業プロジェクトも人間の尊厳を取り戻すための素晴らしい活動だった。

 ただ、ルーク地区の難民キャンプの悲運は、ほとんどの人に対し、緊急状態を脱したあともなお食糧援助が続いたことだ。いや、食糧援助だけが続いたと表現するのが正確だ。難民からすれば、仕事をせずともメシが手に入るのだ(これをうらやむ人たちが便乗難民や偽装難民になる)。

 どんな人間にも、その日その日を生き抜いていく力がある。緊急状況を脱したあとは、その力を生かすことのできる場があるのが望ましい。人間としての尊厳をもって、その社会のなかで生産的な役割を担うことが望ましい。
 もちろん、そういうビジョンはあっても、一つの地域だけで10万人を越す難民を、UNHCRといくつかのNGOだけではカバーできないのも現実だった。
 例えば、マガネイでも2000家族のうち、JVCが関われたのは100家族だけ。残りの多くの人は、ほとんどが食糧援助だけで生きていた。

 先行き不透明ななかで、何年にも及ぶ食料や毛布を配給されるだけの生活・・。その、決して健康的とはいえぬ決して変わることのない受け身の毎日は、いつしか、人の心に澱みを生み、外国人から何かをもらうことを当然視するようになったのだ。そして、人によっては、自分の「難民」という「特権階級」をフルに活用してぶったくりに奔走した。

 さて、では、ジャボレ難民キャンプに移送されたマグドール1や2の人たちはどうなったのか?
 定住プロジェクト中止のあと、私はジャボレに行った。そこで見たのは、まことに驚愕の事実だった。あのソマリアで最も貧しかった難民キャンプが最も豊かな難民キャンプへと変貌していたのだ。「援助」のために。それは次号。


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ぶったくる
 
 家の建設が始まってから1カ月以上過ぎた2月21日。初めて、JVC側から定住農民に話し合いを呼びかけた。主な議題は二つ。

 一つは、家を作ったはいいが、いまだ難民キャンプに住み続ける家族が多いので、その理由を示してもらうこと。

 もう一つは、ドアや半ドラムの半額負担分をほとんどの農民がJVCから借金をしていたのだが、その返済をしてもらうこと。

 その数日前、JVC農場の農民が、収穫したタマネギやトウモロコシなどを市場で売り、多い人で1万5000シリング、少ない人で4000シリングの収入をあげた情報を私たちは掴んでいた。こういう情報は口コミであっという間に入ってくる。
 第4農場代表のアブドゥラヒとは、借金は収穫後に返すとの約束を交わしていたのでこの日を選んだのだ(なんだか借金取りみたいだ・・)。

 JVCと農民との総勢12、3人は、できたての家の中で輪になって座った。この日は、アオキとモハメッド=ハジだけではなく、JVCの主要ソマリア人スタッフにも出席をお願いしていた。私が第一の議題の口火を切った。

「家は出来たが、難民キャンプから移り住んでいるのは家長一人だけという家が多い。難民キャンプに住んでいる家族は移り住む気配もない。これではただの別荘だ。どういうことなのか?」

 予測していた答えが返ってきた。

「最近まで収穫で忙しかったので、そういう最中に急に生活を変えるわけには行かない」
「では、これから家族の移住、そして古い家の解体とその移送を始めると?」
「そうだ」

 この件はこれで切り上げた。嘘か本当かは一週間以内にわかるからだ。
 次に、借金清算の議題。

「約束の借金清算の件だが、今週中にでも集めたいと思います。いつが都合いいだろうか?」

 とたんに、農民たちは小さな輪になって低い声でボソボソ話し合いを始めたが、輪が崩れ、全員が元の位置に納まると、すぐにアブドゥラヒは口を開いた。

「その金は今は返せない」
「どういうことか?」
「金がないのだ」

 とっくに予想していた答だ。グッと堪えて話を進める。

「アブドゥラヒ。それが本当でないことは知っているよ。あなたがたはつい先日、市場で収益をあげたというじゃないか」
「いや、本当にないのだ。もう使ってしまった。そこで今、何を話し合っていたかというと、誰か金を使っていない者がいたら、そいつから借金しようと確認しあったのだが、みんな金を使ってしまったって。そういうことで、金は払えない」

 心の底から何かフツフツといい知れぬ感情が湧いてきた。

「いいですか。あなたがたは、よく私が約束を守らないと批判するが、今、あなたがたが約束を破るのか? ここにいる者なら誰もが知っている。収穫後に金を返すといったあなたがたの言葉を」

 こういうときに登場するのがマーリン=アブディだ。

「確かに言ったさ。だが、金がない。どうするのかね。俺たちも約束を破る気はない。基本的に、俺たちは、あんたとは仲良く付き合っていきたい。なぜなら、あんたのお陰で農場の近くに住めるようになった。これを感謝せずにおれようか。ラッキン!」

 さあここからだ。

「こういう諺がある。『人に憐れみをかけない者は地獄に行く』とな。俺たちは貧しい難民なのだ。その俺たちに憐れみをかけるのは当然のことではないか。俺たちはソマリアに来てから、UNHCRからは食糧を、JVCからは農地をもらってきた。今回もできる限りの支援をしてくれるのが当然ではないかな? あの時はあの時、今は今。状況に応じて対応を変えてくれるのが助けてくれる者の道ではないか。収益はあったが、それは何より大事な家族のために使ってしまった。それを責めるのは、カシダ、人として間違っている!」
 
 こんな話を延々数十分も聞かされると、「俺は間違っているのだろうか」と、だんだん話に丸め込まれていきそうになる。相手の話が終わると、心のなかでエイと気合を入れて、私は口を開いた。

「マーリン=アブディ、忘れたのか? 我々は、約束以外にも、ドアや半ドラムを半額で提供したし、将来は集会所も作ろうとしている。それで何が足りないのか。問題は、あなたがたに金を返す気がないことだ」
「何を言う! 金は返すさ。ただ、今は金がないと言っている。次の収穫後には返すよ」
「一体何を言っているんだ! その収穫後が今じゃないか!」

 私は、続けざまにアブドゥラヒに向かい直って告げた。

「あなたがこの農場のリーダーなんだ。あなたが金を集めてくれ。でなければ、皆に代わって立替払いをしてくれ。その動きがない限り、今後、第四農場からここに定住したいという人が現れても受け付けられない。あなたがたに対してもいかなる支援も約束しない。いいですね!」

 強い口調に、アブドゥラヒはグッと黙った。その一瞬の沈黙をついて、日本人の農業プロジェクトのリーダーのOさんが「ちょっといい?」と発言を求めた。

「今回の計画は、単に農場近くに住むというだけではないはずだ。この場所で農業を中心にして、いろんな商業活動を起こして、最終的には、JVCがこの土地をいつか去っても、自分たちの力で生活を続けることが目的ではないのか。今日の話を聞いていると、あなたがたの発言には、あなたがたの自立にとって非常に危険な匂いがする。あなたがたは自立をしたいのか、いつまでもJVCに依存したいのか? はっきり言っておくが、この計画はあなた方の自助努力こそ一番大切なものだと思う」

 これを通訳したソマリア人スタッフも、続けて発言する。

「約束が何度も変更させられようとしている。どんな理由があるにせよ、これは互いの信頼関係によくない結果を及ぼす。約束を守る原則を忘れないで欲しい」

 農民は黙った。私は言った。

「アブドゥラヒ、金は早急に集めてくれ」

 アブドゥラヒは「ああ」と憮然と頷いた。
 ほぼ毎日、あれをくれこれをくれの要求を繰り返し、その要求が通らないと、子どものようにギャーギャー容赦なく私を責めたてる難民との話し合いに、ただ疲れ切った。もう中止だなと思った。

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