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Author:樫田秀樹 ブンブンエコライト
ブンブン回すだけで充電できる懐中電灯。たった97グラム!
電気不要・8年間カートリッジ交換不要の浄水器
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東アフリカのソマリアで数十万人が飢えています。
無関心ではいられません。1985年から87年までの丸2年、私はNPOの職員として、ソマリアの難民キャンプで活動していたからです。 難民といっても、ソマリアの隣のエチオピアのオガデン地方からの難民は、ソマリアに住む大多数の民族と同じソマリ族。西側列強に勝手な国境線を引かれたがために同じ民族が違う国に属してしまったのです。彼らは、オガデン地方での内政不安による、軍からの弾圧や拷問などを受け命からがらの逃避行を続け、ソマリアにたどり着いたのでした。 今回のソマリアの飢えは、ソマリア国内の干ばつが原因の一つですが、ご存知のように1990年代に入ってから続いている無政府状態では、起こるべくして起こった事象です。 ●なぜ子どもが死ぬのか? 私は1985年2月にソマリアの再奥地ルークに赴任しました。ケニア国境からもエチオピア国境からも近い地域です。当時、エチオピアから続々と新難民がやってきましたが、栄養失調の子どもも数え切れないほどいました。 担当した業務は、これら新難民のための「補助給食プロジェクト」と「医療プロジェクト」。 「補助」というのは、国連が難民の家族全体に割り当てる食料を「主食」とすると、それでもより栄養の必要な女性や子どもたちを対象にしたということです。 3月に開設した給食センターは毎日が戦争のような忙しさで、多くの人が殺到しては、給食を食べ、あるいは持ち帰り、医療を受け、その一方で子どもの死亡報告も受ける毎日でした。おそらく登録数の1割未満ですが、それでも数十人が死んだかと思います。 私には素朴な疑問が生まれましたーー「なぜ子どもが死ぬのだろう?」 エチオピアからソマリアまでの逃避行の間なら、多くの子どもが死んでも不思議ではありません。しかし、食糧支援のあるルークに辿り着けば飢える心配はない。「主食」も「補助給食」もあるなかで、なぜ、子どもたちが死んでいったのか? ●強いものが食べる 当初、私たちは、給食センターで食べることは当然ですが、給食(主に、大豆粉、とうもろこし粉、粉ミルクをおかゆ状に炊き上げたもの)の持ち帰りも許可していました。難民の女性たちの忙しさ(水汲み、料理、洗濯、育児、遠方からの薪運び等々)を考えれば、それも仕方ないと考えていたからです。 ところが、それでは、登録した子どもたちの変化を見ることができないので、難民キャンプのリーダーたちを案内に、私たちは家庭訪問をしてみることにしました。 1軒目でたまげました。家に入ったとたん、目にしたのは、私たちが入ってきたのを知っていても、給食を当然のように悠々と食べていた父親だったからです。その傍らには、1ヶ月前に登録をした子どもが痩せたままで浅い呼吸をして横たわっている。 「何しているんだ!」 私たちは父親を叱り、給食を子どもに食べさえるように促しました。 ひどい父親だ! そう思った私は、次の2軒目でも3軒目でも10軒目でも、同じ現実を見ることになります。これが、ここでは当たり前の現実だったのです。 なぜなんだ! 私は、給食プログラムを共に行うソマリア人スタッフと話し合いました。そして、わかったのです。 ここでは強いものが先に食事をする。 ルークはかつてギネスブックに「世界で一番暑い場所」で登録されたことがあります。湿度は10%以下。ジーパンなんて洗濯して1時間も干せば、パリパリに乾きます。 この厳しい土地で生き抜くには、さらに、子どもが7人、8人もいるのが当たり前の社会では、まず体力のあるものが、燃料である薪を切ってくるため、農作業を行うため、水を汲むために働かねばならない。日本人の感覚で、まず弱いもの、特に乳幼児に先に食事をさせたのでは共倒れになる。 魚は卵を何万個と生み、そのうち、一部が生き残りますが、それと近い感覚が砂漠に生きるソマリア人にはあります。7、8人、人によっては10人子どもを生みますが、全員が成人することは少数例。1人か2人は死んでも、それはすべて「インシャーラ」(神の思し召すままに)であり、仕方のないこと。 それに、死んだとしても、その子はアラーの神の元で幸せに暮らしているのだ・・と本心から信じています。 当初、給食プログラムに妊産婦を登録するときに、ソマリア人スタッフが「今まで何人子どもを生んだか?」そして「何人死んだか」を尋ねていましたが、死んだのが「0」と答えた女性は少数だったと記憶しています。その登録ノート、私の手元にはないので正確な数字を示せないのが残念です。 強い子が生き残る。弱い子は死ぬ。それが、あの土地では自然の冷徹な掟なのでした。 実際、給食プロジェクトを実施するうちに私が理解したのは、「3歳」を乗り切るかどうかが、その子どもが成人するどうかの分かれ道だったということです。3歳を乗り切った子どもが老人まで生き抜くのです。 ●食べ物だけで回復する 話を戻します。 かといって、「主食」は既に配給されているわけで、私たちの補助給食の対象者である子どもが給食を食べれないことには毅然とした態度をとらねばなりません。 家庭訪問の数日後、私たちは「給食の持ち帰りを禁止」しました。 なかには、抵抗して、なんとしても給食を家に持ち帰ろうとナベやヤカンをもってくる母親たちもいましたが、断固断り「子どもを連れてくるんだ。そうでないと給食は支給できない」と宣言しました。 その結果、徐々に給食センターで食事をする子どもたちが増え、私たちは一人ひとりの子どもの変化を確認することができたのです。 それでも、非常に危ないと思われる子どもも何人かいました。特に、「このままでは・・」と思った子ども2人を、私たちの宿舎に母親と一緒に引き取りました。 一人の子どもはハッサン(男)。3歳なのに体重が6キロ台。頭髪は抜け、胴にはアバラ骨が浮き出て、顔は老人。何の感情も示さず、生ける骸骨としてごく浅い呼吸だけを繰り返していました。 もう一人はマハド(男)。やはり3歳。遠目には丸々太って見えましたが、それは体全体が浮腫で膨れ上がっていたからです。たんぱく質不足の症状でした。 ![]() 当初、2人の子供にはあげられる食事はスプーン一杯のおかゆだけ。だが食べなかった。 というのは、難民となり逃避行をしていた数ヶ月の間にわたって栄養失調状態が続いた子どもは、体が栄養を欲しているに関わらず、不思議なことに食欲そのものをなくしてしまうのです。この点が私たちをもっとも悩ませた現象でした。 この2人も全くその通りで、スプーン一杯の給食すらイヤイヤをして関心を示さなかったのです。 最初に頑張ったのは、日本人の看護士でした。 1分がかかり、2分がかかり、ようやくハッサンが一口だけを口にする。コップ一杯分の給食にはゆうに小一時間はかかりました。と思ったら、突然、胃に入れたものをゲーと吐き出す。それでも諦めずに給食を運ぶ。 母親たちの頼みは「何か薬を」というものでした。だが断りました。なぜなら、薬ではなく食べ物こそが子どもを治すからです。 そして、マハドのお母さんは、看護士の頑張りに促されるように、自分でも何度も何度もスプーンをマハドの口に運ぶようになり、果たせるかな、2週間後、2人の子どもは正常な食欲と子どもらしい柔らかな肌を取り戻し、元気に退院したのです。宿舎をあとにするときのマハドのお母さんの嬉しそうな顔を私は今でも忘れることができません。 ちなみに、ハッサンは数ヵ月後、食用旺盛な肥満児へと変わってしまいました…。ハッサンを久し振りに見たスタッフは、驚き、そして、笑ったものです。 ![]() ●では、なぜ死ぬ? 明日にも死ぬと思われたハッサンとマハドは元気になった。では、彼らほど重症ではない多くの子どもがなぜ死んでいくのか? これは、母親の意識の差、インシャーラの文化、家族の状況が複雑に絡み合っています。 こんな母親がいました。子どもの名前はアイーショ(女)。2歳。アイーショは登録時は男女の区別がつかないほどに痩せていました。しかし、このお母さんが立派だったのです。 どっこいしょとセンターに腰を下ろすと、アイーショがイヤイヤをしてもスプーン一杯の給食を口元から離さず、1時間もかけて食べさせていました。イラつくこともなく、怒ることもなく、私たちの言葉を信じ、絶対に給食で子どもを回復させるという意志がにじみ出ていました。 当時の私の日記には、こんなことが書かれています。 アイーショの母親は、給食センターに着くや床にドッシリと座り込む。だがアイーショは食事を拒否する。ここまでは見慣れた光景だ。しかし、母親はスプーンを皿に戻さなかった。そのままアイーショの口もとで、食べるのよと穏やかな顔を向け、スプーンを差し出し続けている。一分経つ、二分経つ、そしてアイーショは、ゆっくりと唇をスプーン半分に被せた。口の中に入った給食が弱々しく、だが確実に喉を嚥下していくのが伝わってくる。そしてアイーショは再び食事を拒否する。そして母親も同じ事をする。一分、二分、また同じ事が起こった。 私は別の仕事でそこを離れたが、一時間後に戻っても同じことが行われていたのには目を奪われた。皿にあった給食はほとんどなくなっていた。私は感動を禁じえなかった。どんなにアイーショが食べることを拒否しても、いらつくこともなく、焦ることもなく、ただひたすら子どもの口に給食を運ぶその姿は、乾いたソマリアの光景のなかで、私の心に潤いの雫を与えてくれた。なんと素敵なお母さんだろう。 そして、週に一度の体重測定では、アイーショの体重はいつも増加を確認でき、ついには、給食センターが来る必要がなくなりました。アイーショの表情も女の子らしく変わっていたのです。 ![]() さて、もう一人、スルダーノというやはり2歳の女の子がいました。この子の母親は隙あらば、給食をナベに入れて持ち帰ろうとしていたので、常に私たちと口論を交わしました。私たちは、とうに、持ち帰った給食を誰が食べるかを知っていたので、持ち帰りは断固許すことはありませんでした。 また、スルダーノは、センターで給食を食べるとしても、母親がいつも食欲を見せないスルダーノを諦めてしまい、皿に給食を残したまま帰ることがしばしばでした。 スルダーノはいつも体重検査では、必要体重の七〇%未満でしかなかったのです。 私は、子どもが死んでいく理由がなんとなくわかったような気がします。 ●だが責められない しかし、誤解のないように強調しなければならないのは、あの社会においては、スルダーノの母親は特別な存在ではなかったということです。むしろ、アイーショの母親に寄せた私の感動こそが、難民の人々には奇異に映ったはずです。 少なからぬ母親が私にこう言いましたーー「子供が死ぬのは仕方がない」 弱いものは死ぬ。強いものだけが生き残る。そして家族も生き残る。死んだ子どもはアラーの神の国で今幸せに暮らしている。それのどこがいけないのか。これに、私には返す言葉が見つかりません。 さらに、母親だけにかぶさる家事の多大なる負担。ルークでは、水に関しては、ドイツのNGOが川の水を浄化しての給水プロジェクトを実施していたのでそれほどの苦労はありませんでしたが、燃料の薪は最低で1時間から2時間は歩いて集めてこなければなりません。 しかも人口数千人の町に10万人以上もの難民がやってきたのだから、土地からはみるみる木がなくなり、月を追うごとに薪の調達は時間のかかるものへとなっていました。 母親たちに、一人の子どもだけに長く関わる時間は許されてもいないし、誰かが死んでも、日本のように1週間か10日を喪に服するなどという時間も許されません。その翌日にはいつものように家事をこなすしかないのです。 一度、私の担当する難民キャンプでコレラが流行り、ブッシュの奥に隔離病棟を設置したことがあります。ここに運ばれた母親と小さな女の子がいたのですが、私の目の前で、まず女の子が亡くなりました。それをソマリア人スタッフから知らされた母親は、自らコレラに苦しみながらも、振り絞るように泣いたのです。 当たり前の話ですが、子どもの死を悲しまない母親はいません。 スルダーノの母親はその後、違う難民キャンプへと行ってしまいましたが、もしスルダーノが亡くなったとしても、やはり泣いたと思います。 蛇口をひねれば水が出て、スイッチを押せば火が出て、スーパーマーケットに行けば外国のモノだって手に入る生活を基準にした価値観では、ソマリアのことは分かりません。 私は今でも「生かそう、生かそう」と頑張ってきた私たちのポリシーが、あの「インシャーラ」の文化のなかで人々にどう受け入れられていたかがわかりません。 ただ、もし再びソマリアに赴任すると、やはり同じ方針で給食センターの運営に当たると思います。ですが、母親の日常業務の負担軽減のため、たとえば、燃料(灯油や薪など)の供給などは考えたいです。 ●募金を 話を冒頭に戻します。 それでも、現在のソマリアの干ばつでの飢饉には、募金で支援の手をとお願いしたい。 私たちの給食センターでも、自らの食欲をなくすほどに生死の境に追い込まれた事例は、どちらかというと少数派であり、母親の資質がどうであれ、たいがいの子どもたちは元気に回復しました。 ソマリアは今、無政府状態。国際社会のなかで、もっとも人々の関心からほど遠い場所に置かれてしまった地域です。 1985年。あの当時は、マスコミはいっせいにアフリカの飢餓を報道しました。そのおかげで、俳優の森重久弥さんの提唱した「アフリカに毛布100万枚運動」はあっという間に達成され、私の属していたNPOにも毎月、100万円を越えるアフリカ指定募金が寄せられました。 だが今、そんな募金は寄せられません。アフリカの飢餓がなくなったからではありません。誰も報道しなくなり、誰も関心を向けなくなったからです。むしろ、現地の状況は無政府状態になったがゆえに、さらに深刻になっています。ソマリアだけではなく、多くの国では子どもたちを巡る状況が悪化しています。 今、ユニセフが募金を募集しています。 ソマリア干ばつ緊急募金 郵便局(ゆうちょ銀行)募金口座 振替口座:00190-5-31000 口座名義:公益財団法人 日本ユニセフ協会 *通信欄に「ソマリア」と明記願います。 *送金手数料は免除されます。 是非、ご利用ください。 ↓ ブログランキングへの応援クリックお願いいたします。 ![]() ![]() スポンサーサイト
ソマリア沖の海賊行為で逮捕され、日本で審判を受けるはずの4人が、ソマリ語通訳がいないとの理由で、公判予定が未定となっています。関心惹かれる一件です。私がかつて2年間(1985年から87年)、あるNPOのスタッフとしてソマリアに住んでいたことがあるからです。
エチオピアとケニアの両国に近い国境の町ルーク。その周辺にいた難民の人々への保健プロジェクトや農業プロジェクト、収入向上プロジェクトを担当していました。 当時、簡単な日常会話はなんとかこなしていました。ただ25年も経つとその9割は忘れています。 ルークはかつてギネスブックで世界一暑い場所として記録されました。気温が連日50度を越え、湿度は10%を切り、見える光景は砂漠の灰色だけ。こういった殺伐とした自然環境は人間の心理にも強く影響を与えるようで、難民も私たち日本人スタッフも常に一種ギラギラした雰囲気を身にまとい、日本ではケンカをほとんどしない私ですら、一部のしたたかな難民との臨戦態勢を常にとっていて、実際、ときに怒鳴りあうように対峙したものです。 自然環境に加え、ルークは、難民の出身地エチオピアの国境が近いという地理的理由でも常にピリピリとした緊張感を強いられた場所でした。実際、ちょっと緑の多い内陸部の難民キャンプでは、人々が微笑みながらゆったりと歩いている。その心のゆとりに、「お~、これが同じソマリアか~」と妙にホッとしたものです。 で、言いたいことは、私の理解しているソマリアは、ルークであり、ソマリア全体像ではないということです。 ソマリアにやってくる難民は当時、エチオピアからが圧倒的多数でしたが、元々同じソマリ族なので、彼らが言葉や文化で困ることはありませんでした。 ルークの難民は、大多数の遊牧民系と、少数派の農民系とに大別できますが、遊牧民系はとにかくしたたか。 たとえば、難民の登録や支援を担当するUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)が、x月x日、どこそこの町で難民登録をするとの情報が伝わると、親戚の子どもをかき集めて難民登録に赴く一家が当たり前にいました。つまり、登録係員の前で「さあ、見てください。私の子どもは8人もいます。食糧支援がなければ生きていけません」と訴え、実際の家族の数よりも多い人数で登録され、必要人数以上の量をゲットできる食料クーポンを入手するわけです。 一方の農民系の人たちは、これは私たち日本人との文化や思考、情などが共通する部分が多く、つきあうのに障壁はそれほど高いとは思いませんでした。 ただ両社に共通するのは、難民となってソマリアにやってきたばかりの頃は「オレたちはボロボロの難民だけど、立ち直ってみせる」との、それこそ今の東北大震災の被災者の方々の思いとも共通する覇気をもっていました。実際、彼らはNPOの支援も待ってはいましたが、それ以上に、自分たちでやれることはすべてやっていました。私は「できるだけ助けないのが、助けることになる」と気づかされたものです。 しかし、いわゆる国際支援が5年、10年と続くと、しだいに食糧援助に慣らされ、働く気も失われ、逆に、私たちNPOに「俺たちは貧しい難民だ。お前は俺たちを救う義務がある!」との言葉を吐く人も現れます。私は、新しい難民とも古い難民とも付き合ってきましたが、さすがに、こんな言葉を目の前ではかれたときは、腹が立つと同時に、彼らのやる気を失わせてきた「与えるだけの」援助のあり方を次第に疑問視するようになりました。 ともあれ、こうなってしまった人たちと渡り合う毎日は、こちらの神経がズタズタに傷つく思いが走ったものです。 一方で、そういった殺伐とした環境の中でも、私を常に精神的に支え救ってくれた心優しき立派な人も数多くいたのです。私がソマリアを去った4年後の1991年にソマリア内戦が始まり、無政府状態が今日まで続いていますが、ときどき、あの人は、あいつは、今何をしているかなと思い起こします。エチオピアから難民となりソマリアにやってきても、内戦で再び難民となった彼らは今何をしているのか。 さて、遊牧民系と農民系の人たちの行動パターンはある程度は理解できましたが、今回の海賊事件を起こした漁民系のソマリア人の思考パターンや行動パターンは私には分かりません。 ソマリア沿岸部でとんでもないことが起こっていることを知ったのは5,6年前でした。 こともあろうに、無政府状態になってから、ヨーロッパの産業廃棄物処理業者がソマリア沿岸やソマリア沖に有毒廃棄物、医療廃棄物や放射性廃棄物を海底に投棄していたのです。 そして、それら廃棄物を封入したはずのドラム缶などが、2004年にインドネシアなどを襲った大津波の影響で(ソマリアにも到達していた)、沿岸の村々に打ち上げられ、多数の病人を出したのです。 だが、無政府状態のソマリアを取材するのは命がけのことで、ほとんど誰もこれを取材していません。あるイタリア人ジャーナリストが現地取材をしましたが、何者かに命を消されています。 ここから先の話はほぼ推測でしかないのですが、海賊の頻発には二つの説があります。 1.沿岸部を汚染された漁民が、仕方なく、食うために海賊行為を働くようになった。 2.海賊は、元々プロフェッショナルが存在していた。それが活発化したことで国際社会に注目された。 さらにもう一つの情報としては、 ★無政府状態になってから、ヨーロッパやアジアの漁船がソマリアの魚を乱獲した。これに抗議したソマリア漁民が何百人も射殺された…。 もしこれが本当なら、「やり返す」のは大いにアリです。 私はどれも可能性もあると思います。 ただし、1に関しては、ソマリアのあの長大な海岸線すべてが汚染されてしまったのかは、なかなか想像できません。詳細なレポートがほしいところです。そもそも、海賊を行うには、それなりの必需品(船、武器など)が必要なわけで、それをどう調達したのか? そこで2のプロとなんらかのコンタクトをしたのか? もし1の理由であるなら、海賊行為は許されないにしても、そこに至った背景に関しては理解する必要があります。 韓国でもソマリア人の海賊が連行され裁判を受けましたが、ここではハングル語、英語、ソマリ語のリレー通訳で乗り切ったようです。 日本でも、来日時の取調べのときに立ち会った通訳にもう一度登場してもらうか(当局は、裁判前に事情を知った人の再採用は客観性に欠けるとの理由で、同じ通訳の裁判での採用を考えていない)、日本に数人いる元ソマリア人難民に頼むか、ソマリアの隣の国のジブチ(ソマリ族の国。青年海外協力隊も駐在している)から英語を話せるソマリア人を連れてくるか、やはり隣の国のケニアに多数いるソマリア人難民から英語を話せる人を連れてくるしか方法はないかもしれません。 単に海賊行為だけに焦点を当てるのではなく、その背景を明らかにすることこそ裁判です。何せ、日本に連行された4人のうちの一人はまだ19歳と幼い。 19歳の彼が自ら望んで海賊行為に及んだのか? 本当に、放射性廃棄物の問題があったのか、それによる被害者はいたのか、それとも、割のいい仕事だからのめりこんだのか。 知りたいことはいっぱいあります。公判が始まれば傍聴に足を運びたいと考えています。 ↓ ブログランキングへの応援クリックお願いいたします。 ![]() |
取材のカンパをお願いいたします
1都6県にまたがるリニア問題を一人で取材することは自分で選んだ道でありますが、それも多くの方から取材費カンパというご支援をいただいたからです。とはいえ、2022年末にその資金プールがついに底をつき、東京都や神奈川県以外の遠方への取材を控えざるを得なくなってしまいました。今一度、ご支援を賜りたくここにそのお願いをする次第です。ご支援者には、今年には発行予定のリニア単行本を謹呈させていただきます。私の銀行口座は「みずほ銀行・虎ノ門支店・普通口座・1502881」です。また100円からのご寄付が可能なhttps://ofuse.me/koara89/letter もご利用ください。私と面識のない方は、お礼をしたいので、ご支援の際に、できればお名前を連絡先を教えていただければ幸いでございます。どうぞよろしくお願いいたします。 樫田拝
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